1934年1月20日、富士写真フイルム(現 富士フイルムホールディングス)が誕生しました。
母体となったのは、大日本セルロイド株式会社(現 株式会社ダイセル)です。 大日本セルロイド株式会社は、合成樹脂「セルロイド」の新しい用途として、写真や映画用フィルムの将来性に着目し、欧米からの輸入に頼っていた写真フィルムの国産化にチャレンジしました。 フィルムベースの製造からの一貫生産を目指して研究開発を重ね、1933年に神奈川県南足柄村(現 南足柄市)に足柄工場を竣工。 操業開始に当たって、大日本セルロイドから写真フィルム事業を独立させ、総合写真感光材料メーカーとして発足したのが、富士写真フイルムの出発点です。
創業と同年の1934年、国産初となる映画用ポジフィルムをはじめ、印刷用フィルム、乾板、印画紙などの写真感光材料を発売。1936年には医療用のレントゲンフィルムを発売するなど、独自開発の製品を市場投入し、売り上げを拡大しました。それに伴い、映画フィルムの需要増に対応する足柄工場の拡張、原料薬品を製造する小田原工場の建設、写真乳剤の研究、天然色写真の研究などを担う研究所設立など、次代の成長・発展に向けた活動を加速しました。
写真感光材料メーカーとしての地位を築きつつあった富士フイルムは、 カメラの製造も行う総合写真メーカーとして発展することを目指し、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を実現するため、 1940年に小田原に光学ガラス工場を設立。富士フイルムの光学デバイス分野を支えるFUJINONレンズのルーツとなっています。
第二次世界大戦後は、カラーフィルムの国産化を目指した研究・開発を本格化しました。 1948年に外型反転方式のブローニー判一般用カラーフィルム「富士カラーフィルム」を発売。 1951年には当社の外型反転カラーフィルムを使用して日本で初めての総天然色映画が製作され、映画史に輝かしい軌跡を残しました。
また、それまで可燃性が課題となっていた映画用フィルムのフィルムベースを燃えにくいTACベースに転換。全てのフィルムの安全性を飛躍的に向上しました。
カメラ・光学機器事業への進出も本格化し、1948年に当社初のカメラとなるブローニー判ロールフィルム用スプリングカメラ「フジカシックスIA」を発売しました。
この頃、アマチュア写真熱が広がり、写真ジャーナリズムも活発になったことから、カメラブームが到来しました。 その中で富士フイルムは1952年、主力製品となるロールフィルム「ネオパンSS」を発売。その後もラインアップを拡充し、ブームをけん引しました。
1950年代から海外展開にも本格的に着手します。写真感光材料の東南アジアへの輸出を開始。 1958年には、南米市場の開拓に向けてブラジルに販売会社を設立するとともに、米国・ニューヨークにも事務所を開設しました。
時代の先駆けとなる新たな機器も生み出しました。 1956年、光学レンズの設計で必要な計算を迅速かつ正確に行うために、国産電子計算機の一号となる「FUJIC」の実用化に成功。 自社内の活用にとどまらず、気象庁や大学からの計算依頼にも応え、大変注目されました。
生産においては、品質管理の徹底を図る全社運動を展開。 その成果が認められ、1956年に「デミング賞* 実施賞」を受賞しました。品質を重視する当社の姿勢は、今日まで変わらず受け継がれています。
*工業製品の品質管理に関する優れた成果に対して贈られる賞。米国の統計学者で日本の工業界にも大きな影響を与えたウィリアム・エドワーズ・デミング氏にその名を由来する。
アマチュア写真の需要拡大に伴い、カラーフィルムの高感度化・高画質化を目指し、新たな研究開発体制を発足。1961年に「フジカラーN50」、 1963年に国内で初めて色補正を自動で行う機能を備えた「フジカラーN64」を発売しました。これらにより、国内市場における当社カラーフィルムの販売量は急速に拡大しました。
また、8mm市場の拡大に向けて、誰でも手軽に8mm映画を楽しめる「フジカ シングル-8」システムを開発。画期的なホームムービーシステムとして好評を博し、旋風を巻き起こしました。
1964年、アジア初のオリンピックが東京で開催され、富士フイルムは国内外で積極的な広告活動を展開。企業イメージやブランド力のアップに取り組むと同時に、カラーラボ網を拡充していきました。
1960年代は、先進・独自の技術を開発・活用し、多角化を進めた時代でもあります。
新たな写真法である電子写真の将来性にいち早く着目し、電子写真の一種であるゼログラフィーの本格的な研究に着手。 1961年に英国ランク・ゼロックス社と技術提携を結び、1962年に同社との合弁会社「富士ゼロックス」(現 富士フイルムビジネスイノベーション)を設立しました。
そして、国産初の普通紙複写機「富士ゼロックス914」を発売し、オフィス業務を大きく変える画期的な製品として大きな注目を集めました。
また、当社の材料化学、精密塗布、精密成型などを生かして事業領域を広げ、放送用ビデオテープなどの磁気記録材料、感圧紙、オフセット印刷用PS版、マイクロ写真機器などの分野に進出しました。
生産面では1963年、静岡県富士宮市に富士宮工場を建設し、写真プリント用の印画紙の製造を開始。販売面ではドイツ・デュッセルドルフ、米国・ニューヨークなどに販売拠点を開設し、製品輸出を拡大しました。
創立35周年を迎えた1969年には、東京都港区に当時国内で6番目の高さを誇る東京本社 西麻布ビルを竣工。拠点が分散していた本社機能や東京の営業部門を集約し、経営効率化を図りました。
オイルショックなどが世界経済を直撃し、市場競争が激化する中、富士フイルムは先進・独自の技術を生かした新製品を投入。 1974年に微粒子カラーネガフィルム「フジカラーF-Ⅱ」、1976年にアマチュア向けとして世界最高感度を誇る「フジカラーF-Ⅱ 400」を発売。 技術力の高さを強く印象づけ、製品に対する信頼性とブランドイメージを高めました。
カメラについては、小型軽量で使いやすくフラッシュ内蔵、自動焦点化などの高機能を持つコンパクトカメラの開発に注力し、 1972年に35mmコンパクトカメラ「フジカGP」を発売。さらに一眼レフカメラ分野にも進出し、「STシリーズ」を発売しました。
事業の多角化も一段と強化しました。医療機器分野では、1971年、光学レンズのノウハウを応用した内視鏡を市場投入。
オフィス分野では、競合他社の参入で競争が激化する中、 1973年に初の自社開発による世界最小サイズの複写機「富士ゼロックス2200」、 1978年に小型・高速・高性能の複写機「富士ゼロックス3500」 を発売。この頃から業務改善につながるアプリケーションにも注力しはじめ、ソリューションビジネスの先駆けとなりました。
また、写真フィルムの支持体であるTACベースは、事業拡大の一環として1958年に「フジタック」として販売を開始、 1970年代にはデジタルウオッチや電卓などへと用途を拡大しました。この「フジタック」が今日のディスプレイ材料事業へとつながっています。
生産体制の拡充も急ピッチで進めていきました。 1972年に医療用X線撮影に用いられるX-レイフィルムをフィルムベースから一貫生産する新たな工場を富士宮工場内で稼働開始したのに続き、 1974年には、静岡県吉田町にオフセット印刷用PS版の専用工場としては当時世界最大規模となる吉田南工場を竣工。国内外の製品需要の拡大に応えました。
1980年、当社の新たなCIマークを制定するとともに、「世界の富士フイルム」「技術の富士フイルム」を目指し、 創立50周年を迎える1984年のあるべき姿とその実現に向けた中期経営計画「Vision-50」を策定。 品質とコスト競争力の強化を基盤とするグローバルな戦略を推進し、その一環として1982年にオランダ工場、1988年に米国工場を設立しました。
1980年代は、先進・独自の技術で世界に先駆けた製品、後世に残る製品を生み出した時代でもあります。
世界で初めてのコンピューター処理を用いたデジタルX線画像診断装置「FCR」の開発を発表。 「デジタル時代の先駆け」として注目を浴び、今に続く「医療のデジタル化」をけん引していきました。
世界初のフルデジタルカメラの開発に成功したのも当社でした。 1988年に「FUJIX DS-1P」を開発。今日のデジタルカメラの事業へとつながっていきました。
そして、“写真を撮る”文化そのものを変えたのが、世界初のレンズ付フィルム「フジカラー写ルンです」です。 「フィルムにレンズをつける」という新しい発想で、写真を「いつでも、どこでも、誰でも」撮れるものにし、一大センセーションを巻き起こしました。
「世界の富士フイルム」を印象づける契機となったのが、1982年のサッカーワールドカップ・スペイン大会と1984年のロサンゼルスオリンピックです。 富士フイルムはオフィシャルスポンサーとして公式フィルムを提供するとともに、会場における写真処理業務を担いました。 これらの世界的なスポーツイベントを通じて、富士フイルム製品に対する評価は一段と高まり、世界市場においてハイレベルなブランド力を確立しました。
また、1983年、米国・Philip A. Hunt Chemical Corporationとの合弁で富士ハントエレクトロニクステクノロジー(現 富士フイルムエレクトロニクスマテリアルズ)を設立し、 半導体の回路形成に不可欠な感光性ポリマー材料「フォトレジスト」の輸入販売を開始。その後、フォトレジストや液晶ディスプレイ用カラーフィルター材料などの製造にも着手し、 エレクトロニクスマテリアルズ事業として発展を遂げていきました。
1990年代、富士フイルムは、アナログ技術を磨き続けながら、同時にデジタル時代の到来を見据えたチャレンジを本格化しました。
イメージング分野では、鮮やかでメリハリある色彩でプロ写真家に愛される写真フィルム「フジクロームVelvia」、 デジタル写真の高画質化、カードサイズのインスタント写真システム「INSTAX mini 10“チェキ”」、普及をもたらしたメガピクセルデジタルカメラ「FinePix 700」を発売。 店舗での銀塩写真プリント分野では、デジタルミニラボ機「フロンティア」を市場投入し、業界のデジタル化をリードしました。
写真関連以外の事業でも、デジタル時代を視野に入れた製品・技術に注力しました。 医用画像情報システム「SYNAPSE」、ディスプレイ材料、デジタルフルカラー複写機、プロダクションプリンター、 磁気テープに用いられるATOMM技術(極薄層塗布型メタルメディア技術)など、今日につながる製品・技術を相次いで実現していきました。
一方で、1995年5月、コダックが米国通商代表部(USTR)に米通商法301条の適用を求め、提訴を行うという危機にも直面しました。 「日本の写真フィルム・印画紙市場は閉鎖的で進出が阻害されている」との訴えが起こされたのです。 富士フイルムは客観的な事実に基づいて反論を重ね、当該市場が決して閉鎖的ではないことをマスメディアやインターネットを通じて広く訴えました。 こうした不断の取り組みが実を結び、1998年に全面的に主張が認められ、世界貿易機関(WTO)で勝訴しました。
2001年、それまで50%の株式を所有していた、 複合機などのオフィス関連事業を手がける富士ゼロックスの株式25%を米国・ゼロックスコーポレーションから追加取得し、連結子会社化しました。
この頃から、富士フイルムは本業喪失の危機に直面。 デジタル化の急速な進展に伴い、主力事業だった写真フィルムの需要が2000年をピークに下降に転じ、 2010年にはピーク時の10分の1以下まで落ち込みました。
危機的な状況において富士フイルムは、「富士フイルムという会社を21世紀を通してリーディングカンパニーとして存続させる」という目標を掲げ、「第二の創業」に着手しました。
2004年発表の中期経営計画「VISION75」の基本方針の一つに掲げた「新たな成長戦略の構築」のため、 写真感光材料を中心に培ってきた技術を洗い出し、新たな事業のシーズ(種)となり得る技術を明確にする「技術の棚卸し」を実施。 保有する技術の進化・応用によって成長が期待できる重点事業分野を定め、成長戦略を策定・推進しました。
一方、創業時からの「写真」を大切にする企業姿勢は変わることなく、 2006年には「写真文化を守り育てることが弊社の使命」であるとして、さらなる写真文化の発展に貢献する決意を表明しました。
2006年10月、富士写真フイルムから商号変更した富士フイルムホールディングスを発足。 富士写真フイルムの事業を継承した富士フイルムと、富士ゼロックスの二大事業会社を傘下に持つ持株会社体制に移行しました。 社名変更と合わせてコーポレートブランドロゴを刷新し、より幅広い事業を展開する企業として歩むことを宣言。 そして2007年に、富士フイルムホールディングス・富士フイルム・富士ゼロックスの本社機能を東京ミッドタウンに集結しました。
研究開発や生産の体制整備も進め、2005年、需要が急拡大した液晶ディスプレイ材料の生産工場を熊本県菊陽町に設立。 そして2006年には、独創的な先端技術研究を強化するため神奈川県開成町に先進研究所を開設しました。
事業の多角化に向けた投資やM&Aも積極的に行いました。 2006年に化粧品・サプリメント分野に進出し、2007年には機能性化粧品「アスタリフト」シリーズを発売。 2008年には富山化学工業を連結子会社とし、医薬品事業に本格参入しました。
2008年のリーマン・ショックに端を発する世界的な金融・経済危機の影響が残る中、2011年に策定した中期経営計画「VISION80」において、 ヘルスケア・高機能材料・ドキュメントの3事業を成長戦略の柱に据えました。
ヘルスケア領域では「予防・診断・治療に貢献するトータルヘルスケアカンパニーの実現」に向けた取り組みを進めました。
2011年、米国メルク社からバイオ医薬品の製造受託会社2社を買収し、バイオCDMO*事業に本格的に参入。 2015年、iPS細胞の開発・生産におけるリーディングカンパニーである米国 Cellular Dynamics International, Inc.を買収し、創薬支援や細胞治療の分野を強化しました。 2017年、試薬などを主力事業とする和光純薬工業、 2019年、バイオ医薬品大手Biogen Inc.のデンマーク製造子会社Biogen (Denmark) Manufacturing ApSを連結子会社化し、一層の体制強化につなげました。
*Contract Development & Manufacturing Organizationの略。生産プロセス開発や安定性試験、治験薬や市販薬の製造まで、幅広いサービスを製薬企業などに提供する。
高機能材料領域では、2012年にタッチパネル用センサーフィルム「エクスクリア」を発売。 2013年には高機能材料開発本部を立ち上げ、市場のニーズと当社の保有技術をマッチングし、早期の事業化につなげる体制を整えました。
ドキュメント領域では、2010年、新たな価値創造の拠点として横浜・みなとみらいに「富士ゼロックス R&Dスクエア」を開設。 また、2019年、米国・ゼロックスコーポレーションからの株式取得により、富士ゼロックスは富士フイルムホ ールディングスの100%子会社となりました。
これらの事業以外でも、市場にインパクトをもたらす製品の創出に注力しました。
2011年、コンパクトでありながら一眼レフを凌駕する高画質を発揮するプレミアムコンパクトカメラ「Xシリーズ」を発売。 デジタルカメラ事業を高級路線へシフトしました。
2012年、記録容量2.5TBを実現したコンピューターバックアップ用磁気テープ「LTOテープ」を市場投入。 現在、同テープは、580TBまで高容量化する技術開発にも成功しており、デジタルデータの増大が続く社会に不可欠な記録メディアとして期待が高まっています。
2014年、創立80周年を迎えた富士フイルムは、革新的な技術や製品・サービスを生み出し、 社会に貢献し続けるという企業姿勢を表したコーポレートスローガン「Value from Innovation」を発表。 2017年には、2030年をゴールとするCSR計画「Sustainable Value Plan 2030」を策定し、事業を通じて社会課題の解決に取り組み、サステナブル社会の実現に貢献することを宣言しました。
2020年代は、新型コロナウイルス感染症の流行とともに始まりました。
世界全体がコロナ禍の影響を受ける中、2021年、2023年度を最終年度とする中期経営計画「VISION2023」を策定。 同計画は、2017年に策定したCSR計画「Sustainable Value Plan 2030」のアクションプランであり、 「環境」「健康」「生活」「働き方」の4つを重点分野に、事業を通じて社会課題の解決に貢献し、グループとしての成長を加速することを打ち出しました。
そして、2030年度までに自社の製品ライフサイクル全体におけるCO2排出を50%削減(2019年度比)するとともに、 2040年度までに自社が使用するエネルギー起因のCO2排出を実質的にゼロにすること(カーボンゼロ)を目指す、新たな脱炭素目標を策定しました。
コロナ禍において当社は、X線画像診断装置や検査キット、消毒・除菌製品の提供、ワクチン原薬の製造受託などを通じて医療分野に幅広く貢献するとともに、 駅施設やショッピングモールなどにプライベートなオフィス空間を提供する「CocoDesk(ココデスク)」などのサービスを通じて、 コロナ禍で一段とニーズが高まった新たな働き方の実現にも寄与しています。
成長が期待されるヘルスケア領域では、日立製作所の画像診断関連事業部門を買収し、2021年3月にグループの一員として迎え入れ、さらなる体制強化を図りました。
2019年に富士フイルムホールディングスの100%出資となった富士ゼロックスは、2021年4月に「富士フイルムビジネスイノベーション」に社名を変更、 商圏を従来のアジアパシフィックから全世界に広げ、富士フイルムブランドでの事業展開を開始しました。 富士フイルムのグローバルな販売チャネルを活用した販売地域の拡大、およびビジネスのDXを推進するソリューション、サービスの展開を加速しています。
富士フイルムグループは「ヘルスケア」「マテリアルズ」「ビジネスイノベーション」「イメージング」の4つの事業領域において 先進・独自の技術を生かした製品・サービスを世の中に提供し、事業を通じた社会課題の解決に取り組み続けていきます。